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オバマの一般教書は国民的ショーなのだ

オバマの一般教書は国民的ショーなのだ



昨晩、オバマが大統領に就任して一番最初の一般教書スピーチがありました。


オバマのスピーチの内容は日経新聞でも参照して頂くとして、1時間に及ぶ、国民的一大イベントがどんな風だったかをお伝えしましょう。


まず、9時きっかりに、メジャーTV局は通常テレビ番組を中断して、一斉に一般教書スピーチが始まる国会を映し出しました。正面のひな壇には、スポークスウーマンのナンシーペロージ、副大統領のジョー・バイデンが座り、国会議員は皆席について大統領の登場を待っています。

ミッシェル・オバマを始めとした面子が次々と露払いよろしく現れ、最後に新しく就任したばかりの閣僚一同の登場です。先週日本にも行ったばかりのヒラリー・クリントン、そして財務長官のティモシー・ガイトナー。大きな笑みをたたえたヒラリーとは対照的に、ガイトナー氏はいつも神経質そうな様子です。


そして、登場する偉い方々は、通路脇に陣取っている人たちと握手、抱擁を交わし、おしゃべりも交えて、入り口から彼らの席につくのに結構時間がかかります。


そして、ついにオバマ大統領の登場。”皆さん、アメリカ合衆国大統領バラック・オバマです”一同起立。大拍手。

100人と握手と抱擁を交わし、やっとのことでスピーチが始まる頃には、既に9時20分過ぎごろ。


オバマの一言一言に対して、国会議員の皆さんは立ち上がったり、拍手したり、大喝采したり、とかなりオバマのスピーチがドラマチックに演出されるようになってます。ただ、席は共和党と民主党それぞれ別になっていますから、それぞれどの政策を支持しているかによって、反応が違うのがはっきり観て分かるようにもなっています。


でも、オバマが” We will rebuild, we will recover”と最初に言ったときには、一同大喝采で、それが収まるまで10秒ちょっと、オバマはスピーチをとめていなければなりません。

これは一種のショーです。アカデミー賞授賞式ほどの規模ではありませんが。アメリカ人というのは、一般的に、この手の ”ジャジャーン!”というショーが好きで、またそれを盛り上げるのも得意な国民のような気がします。


日本でテレビ局全部が通常の番組をキャンセルして麻生さんのスピーチを放映する、なんて想像つきますか?

それも、火曜日の晩の9時、プライムタイムですよ。ただでさえ支持率が低いのに、観たいTV番組が見られない、なんて苦情が殺到するんじゃないでしょうか。


でも、こんなところに、アメリカってすごいなあ、と思ってしまいます。

私の主治医 Dr.ギルバン

日本では会社が定期健康診断を毎年実施してくれますが、アメリカでは、そんなものはありません。何といっても国民健康保険が無い国です。会社が何をしてくれるかというと、給与から保険費を天引きして保険会社に払ってくれるのです。だらか、アメリカでは、失業イコール健康保険が無い、という決定的なことになるわけです。。

そして、やっと本題の私の主治医ギルバン先生の話に移りましょう。6年くらい前に保険会社のウェブサイトで、うちの近所にあるクリニックを探していてたまたま見つけたのですが、あまりにいい人なのでそのままいついていて、年に一度の健康診断およびひどいインフルエンザにかかったとき、そうそう膀胱炎にかかってしまったときにもお世話になりました。

パークアベニューにある、小さなクリニックです。ギルバン先生の他に二人ほど医者がいて、待合室も10人入ればいっぱいになるようなサイズです。数年前には、その医者の一人がニューヨーカーという由緒ある雑誌が毎年選ぶ”NYのベストドクター”に選ばれていました。

待つこと20分くらい。助手らしき若い女の子が現れます。彼女が自己紹介するに、どこかの医学部の学生で研修の一環で手伝っているのだとか。簡単な問診の後血圧を測ってくれました。そして更に待つこと20分、真打登場。”どう、元気にしてた?”ギルバン先生は小柄なブラジル人。いつもすっぴんで、黒いカーリーな髪をルーズにまとめています。去年の健康診断で来たときには、確か”ジャパニーズストレートパーマ”をかけたとかで、すべすべのまっすぐな髪をしていて、ほめてあげると嬉しそうでした。 ラップトップコンピュータに私の過去の記録をダウンロードし、一通り目を通すと、ごく自然におしゃべりを始めます。ポルトガル語訛りの英語口調があまりにフレンドリーで自然なので、ついついこちらもつりこまれて健康診断と関係ないようなことをしゃべってしまいます。

”うちの息子、豊かな時代に育ってるから、何でも当たり前だと思っているのよね。”私の母が高血圧なのを話すうち、いつの間にかそんな話題にそれて行きます。”私の父は10歳で亡くなって母ひとりで育ててくれたから、うちは貧しかったの。17歳で初めて飛行機に乗ったけど、自分で働いてチケットも買ったのよ。うちの息子にはそんなのはわからないのよねえ。”

おしゃべりの合間に診察台に座り、ギルバン先生は聴診器を宛てます。”息を吸って。””息を止めて”
異常なし。日本では40歳を過ぎると人間ドックに入って綿密な健康診断を行うのだけど、私もそろそろ受けたい、というと、アメリカでは50歳からだからまだ要らない、との回答。”You are young −貴女はまだ若いわよ。”こんな会話を毎年毎年繰り返しているような気がします。”乳がん検診と婦人科検診の方が貴女の年齢では大事よ。”でも、敢えてお願いすると、別の専門医院へ大腸検診のための紹介状を書いてくれました。”大丈夫よ。貴女は若いんだから”

そして、血液検査のための別の紹介状を手渡すと、件の息子さんが今日は初めて献血に行く話しになり、”本当に大丈夫かしら、て思ってるのよ。だって、針太いでしょう。血なんか見たら気を失っちゃうんじゃないかと思って。”

ドクターギルバン。内科医というよりは、むしろ精神カウンセラーのような人です。行くと精神的に落ち着いた気分にしてくれるのですが、もうそろそろ彼女を離れて、もっと真剣に40女の健康を考えてくれる医者を探そうかな、と思っています。そうは言っても、インフルエンザでげっそりしているときに彼女と話をすると、それだけで元気になるんですけどね。




オフィス・ポリティックス

アメリカの会社では通常新しい年度は1月に始まります。営業各位は新しいクオータ(売り上げ目標)を与えられ、12月までに売り上げ目標100%を達成すべく、会社の上の人たちからハッパがかけられるわけですが、そのハッパ掛け会は一般的にセールス・キック・オフと呼ばれます。キックオフなんて、なんだかサッカーの試合か何かみたいに聞こえるかもしれませんが、要は一日あるいは半日会議室あるいは社外のホテルのカンファレンスルームみたいなところに営業部員を中心とした社員を缶詰状態にしておいて、”お前は今年沢山売るのだ”と催眠術をかけるわけですね。

そして、わが社でも、先週セールスキックオフが開催されました。この景気の悪さ、更に日本企業、という悪条件がそろい、会社が入っているビルの1階の細長く狭いカンファレンスルームに一同召集されました。まずは、偉い人から順番にお話が始まります。小学校の朝礼も、よく校長先生のお話から始まりませんでしたか?


ふと思うに、この会社に入社して以来6年。セールスキックオフに参加するのも6回目ですが、その間に、一体何人の偉い人がこの場で説教を垂れ、そして去っていったことでしょう。あれほどにパワフルで、永久にこの会社を牛耳るのではと思われた典型名アメリカ人CEOがいたことがありますが、彼もいつの間にかレイオフ(Lay Off)されてしまいました。私と仲の良かった営業のVPのアメリカ人も、去ってからもう2年経ちました。

今年は、というと、シカゴオフィスのセールスマネージャーに過ぎなかったのに、去年はシカゴに加えてニューヨークも管轄することになり、今年は更に日本人営業部員も彼の下にはいることになった、脂の乗り切ったセールスVPが開口一番の説教を垂れました。

以前働いたイギリスの会社では、もっと凄いものを見ました。私がNYに転勤してきたときには既にイギリスに転勤になっていたチャックという営業のVPがいたのですが、その彼がNYに戻ってきたときのことです。何でも政治的な理由でロンドンに転勤を願い出てNYを去ったとのこと。その後に営業VPになったジャックという人は、あれほどのパワーを持っていたにも拘らず、最後には誰にも気づかれずに去っていってしまいました。そして、そのチャックが戻ってくるや、彼の昔の仲間がどんどん呼び戻されて各部署の主要ポジションに就いたのでした。彼は、以前に一緒に働いたことがある人しか信用しないのだ、という定評でした。

中でも圧巻だったのは、チャック以前には営業のアシスタントのような全く冴えないことをしていたローラという女性が、チャックと仲が良かったのでしょう、いきなりマーケティング部のディレクターに昇進したのです。チャックの凱旋帰国後初めてのセールスキックオフは、NYダウンタウンのマリオットホテルで開かれたのですが、ローラがマーケティングへ移ってから初の仕事でした。ミーティングが終わると、チャックは大きな花束を持ってステージに再登場し、”皆、ローラに感謝しよう。何って素晴らしい女性だ。What a woman!" つい2ヶ月前まで営業のした働きをしていたローラはステージで拍手喝采を受けたのでした。

ところが、チャックにも終わりの日はやってきたのでした。風の噂によると、去年、イギリスの本社から別の偉い人が送り込まれ、チャックはクビになり、その仲間たちも次々去って行ったのだそうです。


祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし。全くその通りです。



小雪舞う金曜日の夕べ、”ザ・パニック・イン・ニードルパーク”を観る

アパートの上の階に住む、コスチュームデザイナーのジョーがその名誉を称えられるという”The Panic in Needle Park"の上映会に行くことにしました。知っている人が映画の製作クルーにいるなんて、ちょっと業界人っぽくってかっこいいではありませんか。38年前の1971年に公開された古い映画ですから、上映時間のちょっと前に行けばチケットが買えると思ったのは甘すぎました。

7時40分の開演に合わせて6時10分頃映画館に着いたところが、”ソールドアウト”の掲示。金曜日のNYはまたしても零下の極寒です。その中をはるばるダウンタウンまでやってきてそのまま引き返すのはあまりにもシャクではありませんか。寒さでろくに回らない口で、チケット売りのお兄さんに食い下がって何とか見る手は無いかと尋ねると、映画館のドアの外を指差し、スタンドバイの列があって、7時30分時点で観客の入り具合によっては入場できるかもしれない、とのこと。でも、保障はできないからね、と彼は2回繰り返しました。

ロングアイランドからマンハッタンに向かって帰ってくる途中のクラウスに電話し、”私、もう帰るからね。もう、寒くっていられない。”といったところが、こだわりのクラウスは、そう簡単にはひきません。
”ま、待ってみろよ。ひょっとしたら入れるかもよ。”かくして、私は小雪もちらつく寒空の下、映画館の外で前から5人目の列で会場が開くのを待つことになってしまいました。

私の前に立っているのはおそらく1971年あたりに青春時代をすごしたのだろうとおぼしき60代のこぎれいな女性。後ろにいるのも、おそらく同じ年代のおじさん。一番先頭に立っているのは、アートスクールの学生か何かと見受けられる、やけに大きな黒いめがねをかけた、同じく真っ黒いカーリーヘアーの若者。

と、映画館のまん前に乗りつけた車から、杖をついた小柄で華奢な女性が降りてきました。どうも見覚えがあります。作家のジョアン・ディディオン(Joan Didion)ではありませんか?私が去年の夏に読んで涙が止まらなかった私小説”The year of magical thinking"を書いた、あの作家です。”The Panic...."の脚本は’実は彼女と夫の二人が手がけたのでした。数人の人が彼女を見つけ、駆け寄ってサインを求めていました。
思ったとおり、気難しそうな老人のように見受けられました。それにしても、映画館の外で映画の脚本を書いた作家に遭遇できたなんて、なんだか本当の業界人になったようじゃありませんか?NYに住む醍醐味とでも言うのでしょうか。

しかしながら、寒さはしんしんと染みとおってきました。前に立っているおばさんと意味も無いおしゃべりを交わしているうち、雪はちょっと本降りに。こんな日にスカートをはいていたのはあまりに無謀でした。そして、7時30分頃、やっとクラウスが到着。7時40分頃でしょうか、件のチケット売りのお兄さんが出てきました。”チケットは一枚も余りませんでした。一枚もありません。”

ぐずぐずしているクラウスの背中を押し、一番近くのレストランに駆け込みました。どこでもよかったのです、氷点下でさえなければ。

そして、次の回の上映は10時10分。7時40分の上映後に映画監督と観客によるQ&Aセッションがあったのですが、それが長引き、実際に開場となったのはかなり遅くなってからでした。

1970年代のNYの若者。どんなだったんだろうか。そんな無邪気な好奇心でわくわくしながら映画が始まるのを待ちました。ところが、実際、そんな可愛いストーリーなんかじゃありませんでした。のっけから、主人公の女の子は堕胎手術を受けるために入院。ボーイフレンドの友達(アル・パチーノ)と付き合い始めるも、彼の影響ですぐにヘロインを始めてしまうのです。若きアル・パチーノはニューヨークのいわゆるチンピラで、盗みとヘロインの売買で何とか生計を立てていて、安ホテルを転々と暮らしています。彼らを取り囲む若者は皆ヘロイン中毒の連中で、皆集まっては腕の血管に注射器を当て、それが大写しになるたび、私もクラウスもスクリーンから目をそらさずにはいられませんでした。それほどリアルなんです。

ちなみに、ニードルパークというのは、ブロードウェーの72丁目あたりの公園のことで、当時は麻薬中毒の若者たちがたむろしていたのので、そう呼ばれていたのだそうです。今は、コロンバス・サークルと言って、高級ブティックまで並ぶハイエンドな地域になっていて、その面影だにありません。

金曜日の晩、見終わってなんだか後味の良くない映画でした。(ため息)

88丁目に住む人たち

 引越し騒動もほぼ収まり、段ボール箱の数もめっきり減ったので、そろそろ近所の人たちにご挨拶に出向くべきだ、ということになりました。アメリカにそういった風習があるものかどうかは知りませんが、ニッポン人の私としては、引越し蕎麦はなくとも、せめてご挨拶はすべきだと思ったのです。土曜日のお昼過ぎに、オーブンの天板いっぱいにドイツのレシピでレモンケーキを焼きました。小さく切り分けると、ほぼ48個。

まずは、一番気難しいと聞かされている、上の階に住むジョー。多分何しにきたのか、とケーキだけ受け取って門前払いを食うだろうと思っていたところが、”2週間前に引っ越してきたので、ちょっと寄ってご挨拶に”と言うと、満面に笑みを浮かべ、更に私が何か持ってきたのを見つけると”まあ、なんってご親切に”と私の両手を取って中に通してくれました。彼女は、実は有名人なんです。ハリウッド映画のコスチュームデザインを長年手がけてきた人で、家の中には映画の撮影で監督が座るような椅子が飾ってありました。一緒に働いた俳優の名前には、枚挙の暇がありません。ただ、彼女はおそらく80歳近い人で、彼女が全盛期で働いていた頃は1970年代。女優の名前にしろ、私にはちょっとピントこないものが殆ど。でも、中で誰が一番お気に入りかと訪ねると、即座にアルパチーノとの回答。
今週の金曜日には、アート映画を上映するFilm Forumという映画館で、”ニードルパークのパニック”という(勿論、彼女がコスチュームを手がけた)1971年製作の映画が上映され、映画終了後に彼女の名前が呼ばれ、その名誉が称えられるのだとか。本当に得意げでした。白髪の髪をミディアムロングのボブヘアにし、とてもリラックスした風です。家の中はちょっと女の子っぽいインテリアで満たされ、玄関近くには、大昔使われていたようなガスコンロが飾ってありました。

ジョーのアパートで思いがけず30分以上も費やした後は、今度は下の階の住人にご挨拶に伺いました。これまた、フレンドリーな一家で、”ま、上がってください”と引き止められ、ローラ&ジェームズ夫妻としばし歓談、。彼らはおそらく50歳前後くらいのカップルで、何か物音がするなと思いきや、ティーンエージャーの男の子と女の子がいるご家庭。旦那さんのジェームズは婦人科の開業医で、アップステートというマンハッタンから電車でも1時間強かかるところで働いている、とのこと。息子さんが名門高校の奨学金がもらえたけれど、通学の条件としてはマンハッタン内に住んでいなければいけないとかで、急遽アパートを買ったのだそうです。さぞ成功している開業医なのでしょう。なんでも、その名門高校からはアイビーリーグ大学への進学率が10%以上なのだそうです。日本で言うところの、東大合格率みたいなものですね。そのうち子供たちも次々顔を出してきましたが、やはりちゃんと躾けられたいい子供たちみたいでした。まだ歯の矯正をしているような子供でしたが、その握手はすでにしっかりと硬く、将来は弁護しかあるいは父親と同じ医者にでもなるのでしょう。

と、1時間弱の間に2件の家庭を覗き見、そして暖かい歓迎を受け、私はこのアパートがもっと好きになった気がします。

今日会社から帰ってくると、お隣りさんとジョーからケーキのお礼のカードが届いていました。お隣の女性は来客中であまり話すこともできなかったのですが、ケーキのお礼にディナーに招待したい、とのこと。アメリカに家族のいないわたしたちにとって、なんだかバーチャルな親戚関係ができたような気すらします。

NYは人と人がつながりにくい孤独な街だといわれているし、私もずっとそう思ってきました。でも、すてたもんじゃないぞ、ニューヨーク。

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